突然降り出した雨に、菊は空を見上げながらため息をついた。
いくら梅雨の時期とはいえ、天気予報の雨は夜からという予報を信じて、洗濯物も干したまま買い物に来たというのに、これではきっと濡れてしまっているだろう。
「洗濯物は諦めるとして、問題は帰り道ですねぇ…」
両手に下げられた買い物袋を見下ろしながら、観念して濡れて帰ろうかと考えていると、足元に影がさした。
「菊」
聞き覚えのある声に、顔を上げると、家で留守番を頼んだはずのルートヴィッヒが赤い番傘を差して立っていた。
突然現れたルートヴィッヒに、菊は目を丸くした。
「ルートヴィッヒさん?どうして…」
「ああ、雨が降ってきたからな、傘を持って行ってなかっただろう」
だから迎えにきたと、ルートヴィッヒは手を差し出した。
菊が差し出された手を見て、その意味をはかりかねていると、ルートヴィッヒはその手で、菊が両手にぶら下げていた買い物袋を奪っていった。
「俺が持とう」
「だめです、そんなお客様に!迎えに来ていただいただけでもありがたいのに…」
「いや、気にするな」
「でも…」
申し訳なさそうに眉を下げる菊に、ルートヴィッヒは傘を傾けた。譲らない様子のルートヴィッヒに苦笑しつつ、礼を言い、菊は番傘の下に入った。そのまま歩き始めたルートヴィッヒに、菊はおや、と首を傾げた。
「ルートヴィッヒさん、傘、一本しかありませんでしたか?来客用のものもさしてあったと思うのですが…」
「…いや、これしかなかった」
「そう…ですか」
菊は玄関先に来客用の傘を常備しているはずだったが、何処かに仕舞っていただろうかと思い返していると、菊の思考を遮る様にルートヴィッヒが声をかけた。
「随分たくさん買い込んだな」
「え?」
菊が聞き返すと、ルートヴィッヒが片手にぶら下げている袋を少し持ち上げてみせる。
「ああ、はい!久しぶりにお二人がおいでになっているので、ついつい買いすぎてしまいました」
「そうか、それは楽しみだ」
「そういえば、フェリシアーノ君は?」
買い物に行くと言った時、俺も行きたいと、だだをこねてルートヴィッヒに拳骨をもらっていたのを思い出し、菊は笑みをもらした。
「あいつならシエスタ中だ」
「ふて寝ですか?」
「ああ、暫く文句を言っていたから説教していたのだが…」
「途中で寝てしまったのですね?フェリシアーノ君らしいです」
「起きたら説教の続きをしてやる」
「ふふ、程々にしておいてあげてくださいね?」
「…ああ。そういえば干してあった洗濯物だが、取り込んで畳んでおいたぞ」
「…すみません、心配していたんです。助かりました。ありがとうございます」
「いや、気にするな」
それっきりお互いに口を閉じると、2人の周囲を雨の音が包んだ。
菊は不思議と不快ではない沈黙に、傘を打つ雨音に耳をすませた。
菊は傘を見上げると、ふと不自然に傘が傾けられていることに気付き、ルートヴィッヒの肩を見てみると、シャツの色が雨に濡れて変色していた。ルートヴィッヒの思わぬ心遣いに、菊は礼を述べようと口を開いたが、突然こちらを向いたルートヴィッヒにタイミングを外され、一瞬口を開けたまま言葉がでなかった。菊の間の抜けた表情を見て、ルートヴィッヒは怪訝そうに眉を寄せた。
「…?どうした?」
「あ、あの、ルートヴィッヒさん。私の方に傘を傾けていただなくとも大丈夫です。幾ら寒くはないとは言え、風邪を召しますよ?」
お洋服も濡れてしまってますし、と菊が続けるが、ルートヴィッヒは傘を直そうとはしなかった。黙ったまま歩き続けるルートヴィッヒに、今度は菊が怪訝な顔をする番だった。そうしている間にも、ルートヴィッヒのシャツは雨水でジワジワと色を変えていっている。
「…ルートヴィッヒさん?」
「…君が」
「はい?」
「君が濡れるより、ずっといい」
菊には不思議とその声が大きく聞こえた。ルートヴィッヒは道の先を見つめたまま歩いている。
菊はルートヴィッヒの濡れた肩を見て、笑みを零した。
「…では、家に帰りましたら、すぐにお風呂の準備をさせていただきます。着るものもご用意させてくださいね」
菊の言葉に、ルートヴィッヒは小さく返事をした。
そんなやり取りをしている内に、見覚えのある門構えが見えた。軒先に入ると、菊はルートヴィッヒから傘を受け取り、先に入るように声を掛けた。
ルートヴィッヒがカラカラと引き戸の開ける音を聞き届け、菊は傘に付いた雨粒を払い始めた。
ポツポツと傘から垂れる水滴が、コンクリートの色を変えていく。
「菊」
「はい?」
菊が振り返ると、居間に行ったと思っていたルートヴィッヒが廊下に立っていた。
「ああ、お風呂ですね。直ぐに準備します!」
菊が急いで傘を閉じて、玄関に入ろうとすると、ルートヴィッヒが少し焦ったように声を上げた。
「い、いや、違うんだその…傘のことなんだが…。」
傘と聞いて、菊は自分の手にある番傘を見たが、特に変わった様子も無く、ルートヴィッヒが何を言わんとしているのかがわからず、首を傾げた。
菊の様子を見ると、堪えきれなかったように、ルートヴィッヒは菊に背を向けた。そのまま廊下を歩いて行こうとするルートヴィッヒに、菊は訳が分からず首を傾げたまま、ルートヴィッヒの背中を見ていた。そのまま、ルートヴィッヒの背中と、番傘を交互に見ていた菊の耳に、ルートヴィッヒらしくない、小さな声が届いた。
「…傘がなかったというのは嘘だ」
それだけを言うと、ルートヴィッヒは、彼にしては早足で、居間の方へ行ってしまった。
玄関に残された菊は、傘立てに赤い番傘を納めた。確かにその傘立てには、菊が来客用に用意した数本の傘がささっている。
微かに居間の方から、フェリシアーノの、あれールート、顔が真っ赤だよと笑う声と、ルートヴィッヒの、何でもない!それよりお前はまだ寝ていたのか?いいがげん起きろ!と、いつものようにフェリシアーノを叱りつける声が聞こえた。
その声を聞いて、菊は先程背中を向けたルートヴィッヒの耳元が赤く染まっていたことを思い返した。
「騙されたというのに、どうしてこんなに嬉しいのでしょうね…」
菊は小さく零すと、履き物を脱ぎ、2人のいる居間へと向かった。
廊下をゆっくり歩く菊の耳元は、先程のルートヴィッヒと同じ様に、赤く染まっていた。