ふと肌寒さを感じて菊が目を開けると、そこは灯りが落とされた見慣れたベッドルームだった。
どうやら、ソファーで読書をしている間に寝てしまった菊をこの部屋の主は、わざわざベッドに寝かせてくれたらしい。もう何度も利用しているベッドのシーツからは、お日様と部屋の主であるフランシスの香りがした。
優しい香りに菊の瞼はとろとろと下がり、目を閉じかけたが、ベッドルームに僅かに漏れ聞こえた音に、パチリと目を開けた。どうやらフランシスはまだ起きているらしい。このまま寝てしまおうかと思わないでもなかったが、暗闇の中に届く小さな音と、香水の匂いに、無性にフランシスの側に行きたくなって、菊は掛けられていた毛布を手にベッドを抜け出した。
そっと明かりの漏れる扉を覗き見ると、金色の髪がソファーの背もたれから少し見えた。キィと僅かな音をたてて扉を開けると、フランシスがワイングラス片手に振り向いた。
「あれ?起きちゃった?」
はいと短く答え、ソファーに近づく。素足がタイルを踏むたびに、ぺちぺちと頼りない音をたてた。いつもの定位置であるフランシスの隣に腰を下ろすと、隣から視線を感じて、何ですかと問えば、目尻を下げたフランシスが何でもないよと言ってワインを一口呑んだ。その表情が何だか気に入らなくて、急にあなたの側に行きたくなったとは口が裂けても言わないでおこうと、菊はよくわからない決意を固めた。ぼんやりとした光を放つテレビに目を移せば、白黒画面の中で男が愛を語っていた。随分古い映画の様で、菊には見覚えがないものだった。じっと画面を見つめていた菊に、フランシスはこの映画知ってる?と尋ねた。
「いいえ。随分古い映画のようですが…」
「そうねぇ…40年くらい前かな」
道理でセリフ回しが古風なのだと思いながら画面を眺めていると、目の前にワインが注がれたグラスが差し出された。礼を言って受け取り、一口含んで飲み干すと、喉をアルコールの熱が通り過ぎていった。
しばらく映画を互いに無言で鑑賞していたが、相手役の女優が涙をこぼしながら切々とどれ程自分が愛しているかということを語り出すと、フランシスはテーブルにグラスを静かに置いてくすりと笑った。笑みの意図を掴めずに菊は首を傾げる。そんな菊にフランシスはごめんごめんと謝りながら菊の方に向き直り、両手を広げた。
「『ああ!だってこんなにも愛しているのに、あなたは気付いても下さらないわ…』」
突然何を言い出すのかと、ぎょっと目を見開く菊にフランシスはおどけてテレビを指差した。指の先を追うと、全く同じセリフを女優が口にする所だった。フランシスの行動に半ば呆れながら、いきなり何ですかと問うと、菊ちゃんはこんな情熱的なセリフ言ってくれたことないよねぇとフランシスは笑う。
情熱的というよりはただの恥ずかしいセリフだと思ったが、口にすることが無いと言うのは否定できない事実だったので、菊はむっと眉を寄せるだけで、反論することはできなかった。
「『君がもし本当に僕を愛しているならば、この唇に口付けてくれないか?』」
菊の反応そっちのけで映画のセリフを口にしながら菊の髪に手を伸ばすフランシスは、普段はおちゃらけているくせに憎らしい程甘いセリフが似合ってしまう姿をしている。そして自分はそんな彼が好きなのだ。何だか勝負に負けてしまったような悔しさを感じながら、菊は精一杯の意趣返しにでた。
「『ええ。もちろんよ、私の愛しいひと』」
同じ様に映画のセリフをなぞった後、目を閉じてフランシスの唇の端に優しく口付けた。そろりと目を開けて反応をうかがうと、ポカンとした表情のあと、強く抱き締められた。いきなり抱き締められたせいで、菊は踏ん張りが利かず2人してソファーの上に倒れ込む。柔らかな衝撃のあと、ぱらぱらと金色の髪が菊の頬をくすぐった。
「菊ちゃん…」
「何ですか?」
フランシスは妙に感極まった声で、何だかオレ、感動しちゃったなんて言うので、菊はフランシスの背中に手を回しながら声を上げて笑ってしまった。