※パラレル
※アーサー→サラリーマン
※本田→本屋 




気の進まない転属で越してきた街を少しでも快適に過ごせるようにと、荷解きもほどほどに出掛けたのは間違いだったかもしれない。というか間違いだった。
突然の気候変化が激しい土地と聞いていたはずだったのに、そのことをすっかり忘れて傘も持たずに出掛けてきた俺は、雨に濡れた髪を撫でつけながら舌打ちをした。
持っていたハンカチはすでに水分を含んで重くなっているし雨宿りをしようにも、店はほとんどが休業日らしく、軒並みシャッターが下ろされていた。観念してアパートまで走るかとコートを頭にかぶって一歩踏み出した所で、仄かな灯りが目に映った。
誘われるようにその店の前まで足を運んでショーウィンドウの中を覗くと、山ほどの本が並べられていた。
飾られた本のタイトルを見ると絵本やミステリー小説、論文、果ては絶版とされている古書まで様々な本が店内の薄オレンジ色の灯りを受けている。感心しながら眺めているとカランという少し間抜けな鐘の音が聞こえた。
音の方に顔を向けると、エプロンを身に着けた黒髪の男が扉の向こうから顔を覗かせていた。

「…雨宿りですか?」

外見とは裏腹に、その小作りな口からは流暢な英語が聞こえた。まさか声を掛けられるとは思わず口を噤んでいると、返事がないことを不審に思ったのか少し首を傾げると小さな声で何事かを聞き覚えの無い言語で呟いた。
「『…英語を間違えてしまったでしょうか?』…あー、ミスター?」
戸惑った表情にはっと我にかえって慌てて、あ、ああ、雨宿りだと半ば叫ぶように返した。
男は特に驚く様子もなく、そうですかと頷くと俺の全身をさっと眺め、店先ではなんですから中へどうぞと微かな笑みを浮かべて扉の奥に消えた。


男に倣って扉をくぐると、そう広くは無い店内の天井まで届きそうな程の本棚がいくつも並んでいた。
古い紙とインクの匂い。
特に覚えがあるわけでもないのに懐かしい気分にさせる香りだと思った。
「ミスター?どうぞ」
声に振り向くと、男が白いタオルを差し出していた。礼を言い受け取ると、男は腕に抱いた猫を一撫でして、雨が止むまでそちらにでもお掛けになっていて下さいと、備え付けられたアンティークのテーブルと椅子を指さすと、定位置であるらしいランプとレジの置かれたカウンター席に腰掛けた。雫が落ちる髪をさっと拭いて、勧められた椅子に座り込む。
店内はとても静かで、男が本のページをめくる音と時計の秒針のカチコチという音、それとガラス越しに聞こえる僅かな雨の音だけが僅かに響いていた。
暇を持て余して店内の本棚を眺めていると、お暇でしたらどうぞ、ご自由にお読み下さいと声を掛けられた。
タイミングの良さに心を読まれたようで、何だかばつが悪くて返事をすることができなかった。俺が返事をしないでいると、店主は何を思ったのかカウンターから出て来ると、俺に本を差し出した。
「これ、面白いですよ。童話ですが。童話はお嫌いですか?」
店主は無表情に革で装丁された本を差し出している。
髪と揃いの黒檀の瞳が店内の灯りを反射して、ほんのりと茶色く輝いていた。
わ、わかった。読んでみると本を受け取ると、俺を招き入れた時と同じ様に僅かに目を細めて笑った。その表情に妙な気恥ずかしさを感じて、その気持ちを追い出すようにさっと椅子に座り直し厚手の革表紙を捲って、羅列された文字を追いかけた。
視界の端で店主がまた笑った気配がしたが、俺は気付かなかったふりをして文字を追い続けた。


「どうぞ」
声と一緒にコトンと目の前に置かれたマグカップで、いつの間にか夢中になって読んでいた自分に気がついた。
思わぬサービスに驚いて、これは?と尋ねると、緑茶ですと少し的の外れた返事があった。
「私の国で古来から飲まれてきたお茶です。本当は紅茶でもと思ったんですが…」
生憎切らしていたようですと話す男の顔はやはり表情に乏しく、真意を読み取ることはできなかった。
もてなされた物を断る程、俺も無粋な人間ではなかったのでこのリョクチャという飲み物を頂くことにして、ゴクリと1口飲むと、苦いような甘いような不思議な味が口に広がった。
不思議な味だなと正直に言うと、男は、初めて飲まれる方はだいたいそう言いますと自分のカップから1口飲んだ。
「…この店って来る客全員にこんなサービスしてるのか?」
リョクチャを飲んでいた男は、まさかと眉を下げた。
「今日はほとんどの店が定休日、しかも雨です。こんな日には滅多にお客さんは来られませんから…」
「…それでやっていけてるのか?」
「ええ、まぁ…殆ど趣味でやってるようなものなので」
苦笑しながらもう1口カップに口をつける。
「俺は転勤でこの街に来たばかりだ」
あぁ、道理で。お見かけしない顔だと思いましたと男は納得した様子で頷いた。
ショーウィンドウの外の斜め向かいの店を指差し、あそこのケーキはオススメですよと言うので、指先を追うとくすんだモスグリーンのシャッターが見えた。随分年季が入っていそうな店構えは、その店がずいぶん昔から存在していることを示している。
「…雨も止んだようですね」
店主の声につられて道にたまった水たまりを見ると、確かにもう雨は降っていないようだった。
俺は急に感じた寂しさのような気持ちを誤魔化すように、カップに残っていたリョクチャをぐいっと一気に飲み干して立ち上がった。
ガタンと音を立てて椅子が倒れそうになったが、そんなことはどうでも良くて、自分が感じた気持ちへの戸惑いでいっぱいだった。
反対に店主は急に立ち上がった俺から身を引いたものの、あぁ、お帰りですね?と呑気に尋ねた。
咄嗟に言葉が出てこずに目を彷徨わせると視界に読みかけだった本が入り込んで、思わずそれを掴み上げ、これ貰うと口が動いていた。
突然目の前に差し出された本に一瞬店主は驚いた表情を見せたが、ありがとうございますと頷いて本を俺の手から受け取るとカウンターへ戻って行った。
俺はというと、自分のおかしな行動を後悔していた。
店主はそんなそぶりを見せなかったが、突然お茶を一気飲みしたり、椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がったりなんて、変なやつ以外の何ものでもない行動だった。もうこの店には来れないだろうとため息をついたところで、店主が綺麗に包装された本を抱えてきた。
どうぞと差し出された本を受け取り、内ポケットから財布を取りだそうとした所で、お代は結構ですと制される。
「え?」
「どうぞ。差し上げます」
そう言われて包装された本を見ると、簡素な包装紙の端にちょこんと小さなリボン型のシールが貼られていて、プレゼントに見えなくもない。
「いや、でも…」
受け取る理由が見つからずに言葉に詰まっていると、店主は少し考えると、ではこうしましょうと手を叩いた。
「引っ越し祝いです。ようこそ、この街へ。ミスター」
お代のことは気にしないで下さい、次回のご来店の際に2倍買っていただければいいですからと、悪戯っぽく笑う。つられて笑えば、礼の言葉がするりと口から流れた。


カランと間抜けな鐘の音と共に扉を開けると、雨上がりの少しひやりとした空気が頬を撫でた。
寒気に僅かに肩を震わせて、ショーウィンドウ越しに見えるカウンターを覗く。
店主は机の上で丸まっている猫の頭を撫でていたが、俺の視線に気付くと小さく手を振った。それに小さく手を挙げて答え、本を小脇に抱えて歩き出す。
店が見えないくらい離れた所で、何気なく水たまり越しに目に入った自分の顔がにやけていて、初めて今日が人通りの少ない日でよかったと感謝した。
はた、と名前も尋ねていなかったことを思い出す。
自己紹介もしなかった。
瞬間に猛烈な後悔に襲われたが、店主は次回と言った。次はあのおいしいと勧められたケーキを土産に名前を聞いてみるか。