※暴力表現有り
会議が終わってすぐに、挨拶をする間もなく、アルフレッドは菊を連れ出し、菊が声を掛けても返事もせずに始終沈黙していた。いつもは彼の兄が諫める程、饒舌であるだけに不気味だった。菊はこの沈黙には身に覚えがあった。沈黙と共に、菊の脳内をいくつもの映像が横切る。
割れた花瓶。
倒された椅子。
じわりと感じた痛み。
振り上げられた掌の影を思い出した途端に、菊の背中が僅かに震えた。
「ア、アルフレッドさんっ!」
「…」
アルフレッドの背中は、菊を気遣う様子もなく、上等な絨毯が引かれた廊下を進んでいく。最早、菊はついて行くと言うよりも、引きずられるようにして歩かされていた。
「あの…どうされたんですか?さっきから黙ってしまって」
「何処に行くんですか」
「手が痛いんです」
不安を振り払おうと何度問いかけても、アルフレッドは答えなかった。
アルフレッドは、重厚な木目調の扉の前で立ち止まると、初めて菊に向き直った。振り向いた表情は笑顔だったが、菊は先程と同じく背中を震わせた。
「菊」
アルフレッドの声が優しく、菊の耳を撫でた。
「ゃ…いやです」
菊は首を小さく振り、拒絶を示すが、アルフレッドは笑顔のままドアノブをゆっくりと捻った。扉の奥は夕日の赤い光に照らされ、菊をますます恐怖させた。
「さぁ、入って」
アルフレッドは菊の手首を握ったまま、赤く染まった部屋の中へ菊を招き入れると、やっと菊の手首を解放した。ガチャンという鍵の音が大きく無音の部屋に響き、菊はスーツに覆われた腕を握り締めた。扉を背にしたアルフレッドは、大きく息を吐くと、笑顔のまま菊に優しく問い掛けた。
「どうして此処に連れてこられたか、わかるかい?」
アルフレッドの優しい声音とは違う気配を体に感じ、菊の額にじわりと汗が浮かんだ。
「っわ、かりません」
菊がそう答えたと同時に、菊の頬を衝撃が襲い、菊の体は床に倒された。菊は何が起きたのかとっさに判断できず、床から身を起こし、痛みを訴える頬を撫でて、やっと自分が殴られたことを自覚すると、頬に強烈な熱さと口の中に僅かに広がる血の味を感じた。アルフレッドは倒れ込んだ菊に目線合わせながら屈むと、あくまでも笑顔で優しく同じ様に問い掛けた。
「菊、オレが言ったこと覚えてる?」
「アルフレッドさん、の要求に答え、ること」
「うん」
「アルフレッドさんの意見に、賛成すること」
「うん」
「アルフレッドさんの、傍を離れな」
言葉を続けようとした菊の頬を再び痛みが襲った。
「そうだよね。オレは言っただろう?菊はオレの傍を離れちゃだめだって」
アルフレッドは菊のネクタイを掴んで引き寄せると、赤く腫れた菊の頬を撫でた。
「申し、っわけありません」
菊が謝罪すると、アルフレッドの表情から笑顔が抜け落ちた。菊を乱暴に突き飛ばすと、立ち上がり、美しく飾り付けられたテーブルの花瓶を床に叩き付けた。陶器の割れる音が大きく響き、中に入っていた水が、叩きつけられてぐしゃぐしゃになった花の下の絨毯の色を変えていった。
「どうして…」
アルフレッドがテーブルの上を腕で凪払うと、備え付けられていた陶器のティーセットが床に落ちち、割れた破片が菊の足元に広がった。
「どうして!」
肩で息をしながら、アルフレッドは菊を振り返った。
「君はいつも思い通りにいかない!」
振り返ったアルフレッドのレンズ越しの蒼い瞳には、暗い焔が宿っていた。
「オレのことだけ見ててよ!」
椅子が蹴り倒され、菊の隣に転がった。
アルフレッドは癇癪を起こした子供のように室内を荒らし尽くすと、床にうずくまったままの菊の前に立った。この破壊された部屋のように自分も痛めつけられるのか、と菊が顔を上げると、今にも泣き出しそうなアルフレッドの顔があった。
「菊…」
アルフレッドはそのまま先程とは違う優しい動作で菊を抱き締めた。
「…好きなんだ」
菊の耳元で、心許ない小さな声が響いた。
「あいしてる。愛してるんだ。ごめん…。愛してる。ごめんね」
ジンジンとした体と頬の痛みを感じながら、菊は小さくアルフレッドの名を呼んだ。抱き締める力を強めたアルフレッドの足元から、パキリと陶器の破片が割れる音がした。